時代の先を行くことの覚悟

自動運転車導入当初、摩擦は起きる。
問題や事故は多少起きる。
でもそこで止まっちゃいけない。
やっぱり危険だった、やめにしようという声に屈してはいけない。
 
時代はこの先いくらか逆行する時があったとしても将来は自動運転になることは間違いない。
黎明期のいま、日本に合ってないなどと停滞してはいけない。
社会に合ってる合ってないではなく、合わせるのだ。
絶対的にデメリットよりメリットのほうが大きいのだから。
 
これからのAI化、機械化の時代。
日本は先進国にならないといけない。
 
東京オリンピックパラリンピックもある、技術大国として世界のペースメーカーになるべきだ。

いわゆる世間一般の休み

休みだから発散しよう、飲み会だから普段のストレスを解消しようなんて正常じゃない。
休みも仕事も楽しいものでなくちゃ。

 

いわゆる世間一般はそうなんだろう。
世間一般は日々の鬱憤やストレスがどうしても溜まる。それは避け得ないことだ。
そのために華金や忘年会、新年会、何かとこじつけで発散させようとする。

 

でも、それでいいとは思わない。
周りがみんなそうしてるから麻痺してるだけだ。正常じゃない。

仕事ってそんな負の存在なのだろうか?
我慢して我慢して我慢してそれで貰えたお金でなんとかして生活してみたいな苦しいものなのだろうか?

 

嫌なものや苦痛を伴うことは避けようとするのが生き物の基本原理だ。
でもそんな基本原理さえ無視してしまう現象が起きている理由は多分いくつかに集約される。

それは家族のためとか、将来のためとか、自身のプライド、はたまた社会に出るってそういうものだという諦め。

 

でもそれは間違っていると思う。
「家族のため」って言葉は所詮自己暗示だ。
それがある、その誇りがあるという理由が苦しい日々の現実から目をそらさせてくれる。
そしてそれは多少成果がみえて(子供の成長等)多少はより自分を酔わせて、間違っていないと思わせてくれるものだ。

 

プライドなんかなくていい。
ここで仕事を辞めたら世間からどう見られるだろうか、親を悲しませるんじゃないか。
そんなのロクなプライドじゃない。

 

社会ってそういうものだって諦め。
これは1番最悪。
諦めんなよって感じ。

 

日本人はもっと自分に正直でいいと思う。
仕事終わりの飲み会(それも翌日の事を気にしての飲み会)や数少ない休みでしか鬱憤を解消できないような日常なら仕事を変えればいい。もっと毎日が楽しくなる仕事に。
簡単に言うなよなんて言う人がいたらそれは諦め。
簡単ではないかも、でも無理な話じゃない。

 

何事に対してもそうだが、一旦そういうものだって考えをやめて、正常な状態ってなんだっけって考えることは凄く価値があると思う。
少なくとも明日のことを不安に思いながら飲むよりは。

日本人のデモ

先日はじめてデモというものに参加してきた。
 
日本でデモというのは非日常だ。
日本人は政治的主張をしたがらない。無理に主張して軋轢が生まれるのを避けようとする。
経済大国としてはしたたかな方法かもしれない。
だが、いつまでもナアナアにし続ける訳にもいかないだろう。
嫌が応にも国際的変化の波に日本は態度を明確にしなくてはいけなくなってきている。
ただでさえ態度を明確にしろと言われてきた歴史がある。
その波は市民の間にも広まってきて、最近ではデモがより有効な政治的主張の手段となってきているように思う。
デモの主な目的は人目の目立つ場所で大規模なデモをやり、このような主張をしている人が多くいると周知させる、いわば一種の広報活動だ。
今や多く人はスマホを持ってSNSをやっているため、個人に向けてのデモも全くもって有効だ。
実際、デモをやっていて、スマホで撮影している一般の人は思った以上に多かった。それも若い人がほとんどだ。
情報発信の主体は今や若者なのだなと感じた。
一人一人の不特定多数が記者みたいなものだ。
お金なんか発生せずとも情報を発信してくれる。
もちろん、メディアに取り上げられるというのも、一つの目的ではあっただろうが、SNS等での発信力はそんなの気にならないくらい強くなってきている。
これからSNS世代が増えてくるに従ってますますその傾向は強まるだろう。
 
もう一つデモの際、印象的だったのは右翼の街宣車の前を通った時だ。
右翼の前を通った時、拍手を送られた。
そしてあちらが手を振り、こちらも手を振り返す。
そこに不思議な一体感が生まれていた。
同じ主張をしているというわけではなく、敵の敵は味方みたいな状況だったが、なんだかえらく感動してしまった。
 
しかし、同時にデモの限界についても感じた。
海外においてデモはスタンダードな政治的意見表明の手段だ。
海外のそれは日本とは比べ物にならないくらい過激で、車の一台や二台は平気で燃やしてしまうものらしい。
日本においてそういったデモは必要はないが、警察に囲まれて、決まったコースを練り歩くだけという非日常でありながらどこか日常的な予定調和を感じた。
参加者もデモに慣れているように感じ取れ、構えていたよりも緊張感はあまり感じられなかった。
フワッと始まり、フワッと終わる。
どこか肩透かしを食らったような感覚は否めない。
 
それでも意見表明をするというのは大切だ。
今まで日本は政治的な意見表明を避けすぎていた。
その形態がデモであろうと別の形であろうと、この日本で積極的に意見表明するというのはこれからの日本にとても重要なことだと思う。
 

より有益な学習方法

最近「般若心経」を書写している。

昔の武士は皆、書写していたと言うし、教養の一つであったと思う。

ちなみに般若心経の練習帳は100均で売っていて、一緒に筆ペンを買ってしまえば一式揃う。

何よりも僕は字が汚い。汚い字にそれほど負い目は感じていないが、きれいに越したことはないし、自分の字を見るのにもいい加減飽きてきた。これを機にきれいになればと思っている。

そういえば小学生の時、字がきれいな友達は決まって習字を習っていた。

今どき、ボールペン字講座やら美しい字を書く講座やら流行っているが、そんなものに通う必要はない。100均の書写練習帳と筆ペンを買って、あとは自分でやりさえすれば字はきれいになる。

ついでに教養も手に入ってしまう。

 

他にも世間では数独が流行っているが数学の計算問題をやればいいし、クロスワードは詰め将棋をやればいい。その方が実用的だし、一石二鳥だと思う

 

古典的なものは今でも役にたつ。

昔から人々がやってきたことというのはやはり理にかなっているし、間違いないなと思う。

言葉よりずっと重要なこと

よく単語の語句を分解して、この字にはこういう意味があってなどという論法がある。
わかりやすく例を挙げると、"Education"は「教育」と訳されているが、これだと一方的に教授するという意味を持ち、本来の感覚とは違う感覚で捉えられてしまう。だから福沢諭吉は「発育」としようとしていた。もし「発育」と訳されていたら今の教育はもっとよい方向に変わっていたのではないか、と。
 
しかし、そんなことはまったく意味のなさない不毛な論理だ。
言葉が変われば、そのものが大きく変わるだろうか?
 
僕はそうは思わない。
 
結局は人の努力による結果だからだ。
その言葉がどのようなものだろうと、現実に人が努力すれば変わるだろうし、逆に言葉がとてもいい意味の言葉であっても、人が怠ければ悪いものになるのだ。
 
少し前からキラキラネームというものが、流行っているが、例えば変な名前をつけられてしまった子供が変な人間に育つかというとその限りではないはずだ。変な名前でも立派な人は居るし、立派な名前でも変な人は腐るほどいるのだ。
だから冒頭のような、言葉をスケープゴートにして人の怠慢を隠すようなことはするべきではない。
言葉などという瑣末に囚われていたら、いつまでたっても本質的な部分を考えることが出来なくなってしまう。
言葉の問題は一部のマニアが内々で盛り上がっていれば、それでよいのだ。
あたかも大衆的に支持されているように、大手を振ってテレビや新聞で真剣に披瀝されているのをみると、どうもみるに耐えない。
 
結局は人が現実でどのように物事を行うか、それ次第だから。

美醜考

かわいいとか綺麗とかかっこいいとか男前とか。世の中の人は外見によって人をある程度判断する。

そしてその評価はひとの人生を左右するほどに重要とされている。

事実、見た目が整っている方が出世しているというデータもある。

 女性は恋愛しかり、結婚しかりそれを武器に生き残っていかなくてはいけないわけだからそう言われることは、何にも勝る価値があるのであろう。

一方、男にもそういった傾向はあるだろうが、女よりは重要度は低いだろう。

もちろん、見た目が良いことに越したことはない。人生をうまく渡っていくための一つの武器ではある。

 

しかし所詮そんなもの若いときの一時的な、刹那的なものに過ぎない。

老いれば消えゆくものに力を注ぐことはあまり賢明ではない。

顔の良し悪しよりはるかに重要なことは、何を成したか、何を残したかだ。

いくら顔がよくても何も成せていないならそれは無価値であることと同義。

なにも出来ていないのだ。

何を成すかをまず最優先に置かなくてはならず、それを差し置いてまず見た目がいいことが第一になってしまってはならない。

 

見た目は目的達成のための武器のひとつでしかなく。それは最悪なくても一向に構わない。

その本末転倒というか、優先順位が逆になってはいけないのだ。

武士が政権をとった後、なぜ天皇は排除されなかったか?

武士が台頭する鎌倉時代までは天皇の血筋によって歴史は動いてきた。長屋王の変藤原広嗣の乱、橘奈良麻呂の変などは正統な天皇の血筋を守るための争いであった。そしてその正統とは藤原氏にとっての正統であった。同じく院政も早くに同じ血筋の後継者を確立するための知恵だった。
 
では武士が政権をとった後、なぜ天皇は排除されなかったか?
それは依然天皇が叙任権という権力を保持していたからであり、荘園制が江戸幕府まで残っていたというのも大きいだろう。つまり天皇は権力を与える存在であり、それを排除するということは自らの権力も無くなるということを意味していた。
さらに神話から連なる日本古来の為政者である天皇の求心力というのは、いくら武士が主導権を握ろうとも根強く、例えば足利義満天皇に取って代わり日本国王になろうとしたという考え方が存在するが、仮に天皇を排除したとしたら、当然幕府に不満を持つものは多く居たであろうから、それを口実に大規模な倒幕運動が起こるであろうと思われる。そのような危ない橋を渡るよりは何もせず従っていた方が賢明だったのだ。

荘子 大宗師篇

「且つ方将に化せんとするの、悪くんぞ化せざるを知らんや。方将に化せざらんとするの、悪くんぞ已に化せるを知らんや。吾特り汝と、其の夢未だ始めより覚めざる者か。」

 

「考えてみれば、自分ではこれが変化だと思い込んでいることが、実は少しも変化していないことであったり、まだ変化していないと信じていることが、実はすでに変化してしまっていることだってあるのだ。このような話をしている私だって、お前と一緒に夢を見ていて、その夢から覚めていないのかもしれない。」

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人を動かす原動力とは?

人がやる気を出したり、行動させるものとは何だろうか?

 

個人的な話で申し訳ないが、ちょうどいいのでさせてほしい。

現在、京都の本能寺にて「大信長展」という資料展が開催されている。

信長好きの僕は絶対に行きたいと思っていたところ、ちょうど京都へ行く機会があったので、ついでに行ってきた。

 

内容の8割は戦国武将達が自ら書いた書状で、甲冑や遺品など生々しいものはあまりない。

この時点でシブい。めちゃくちゃシブい。

多分信長や戦国時代に何の興味もない人が見ても、何も面白くないだろう。

本能寺の資料館には何回か行ったことがあるが、今回に限らず、基本的にあまり万人に媚びない内容だ。

お土産、グッズも一切ない。

 

話を戻すと、「大信長展」と銘打ってるが、信長だけでなく、息子や家臣、ライバルなどの書状などで構成されている。

そしてそのメンツがやばい。

武田信玄上杉謙信毛利元就吉川元春小早川隆景北条氏政細川幽斎千利休前田利家柴田勝家池田恒興徳川家康豊臣秀吉

当時の人は見れなかったであろう、敵対する武将同士の書状が並んでいてすごく興奮した。

織田信長武田信玄の生の朱印なども見ることができた。

 

しかし、そこから想像するのがさらに面白くさせる。

当時の書状を目の前にし、当時の武将達はどういった気持ちで書き、どういった人間であったのか想像する。

それはすごくワクワクさせることで、たまらないのである。

例えば小説を読んでいても、読んでいるのは字面の情報だけでなく、書かれていなくとも、その背景や感情などを人は想像する。それにワクワクするはずだ。

絵などはその想像を補助してくれるであろうが、それは必ずしも正解ではない。

実際に会ったり、体験してみなければ分からない。

 

正解は絶対に分からない。それが一層ワクワクさせる。

 

対象にもよるであろうが、ファンの心理というのは結構そういった想像の要素が大きいのではないだろうか?

恋愛においても、どんな人なのだろう?何が好きなんだろう?と。

想像をすることは人をワクワクさせる。

そしてそのワクワクは人を動かす原動力にもなり、大きな進歩を生むように思う。

常にワクワクしていることはとても大事なことなのだろう。

このワクワクが人を感動させ、動かすのだ。

6人たどれば、みなはらから

「スモール・ワールド現象」という理論がある。

簡単にいえば友達の友達など、人間関係を辿って行くと、6人目で全世界の人間とつながることができるという理論である。

 

最初知ったときはかなりビビった。

世間って狭いなぁと思うことはたびたびあるが、まさか6人なんて。

 

でもちょっと考えてみるとこの理論も正しいのではないかと思える。

例えば普通の人でもラインやツイッターで繋がってる人が大体200人〜300人くらいいるだろう。それがそれぞれ一人ひとりにある考えると、友達や知り合いを辿って行くとネズミ講の図のように関係が膨らんでゆくわけだから、なるほど確かに正しいのでないかと思えてくる。

 

そういえば統計学の本でこんな話を見たことがある。

それは休日の遊園地で知り合いと会う確率は実はそれほど低くないというもの。

簡単に言うと、例えば小学校の同級生に会って感動したとしても、それが別に小学校の同級生で無くてもよくて、中学校の同級生や会社の同僚、親戚であっても同じように感動していたはずだ、というものだった。

なるほどなと感心した記憶があるが、なかなか納得できる。そう考えるとやはり世間はめちゃくちゃ狭いのだなと思える。実は気づいてないだけで街中で知り合いや有名人と何度も会っているのかもしれない。

 

突然だが、僕は「水曜日のダウンタウン」というテレビ番組が好きだ。

数ヶ月前にハマって、ネットでバックナンバーを一気に見たのだが、そのなかに「電話数珠つなぎ、6人で辿りつく説」という検証があった。道端のその辺の人に声をかけ、友達や知り合いに連絡をしてもらい、目的の有名人まで6人でいけるかというものだった。これはまさしく「スモール・ワールド現象」の検証である。そして結果的に本当に6人で目的の人に辿りついていた。なんなら3人や4人くらいで辿り着いてる人もいた。

動画はネットに落ちているので興味があったら是非みてみてほしい。結構ビビる。

世間って面白いなと思う。