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未来予想

随想
グローバル化はますます進む。東京から横浜に行ける感覚で東京からニューヨークまで行けて、世界経済は一体化する。移民とかいう言葉は死語なるくらい世界は一体化するが、アイデンティティはなくならない。

正義と悪

言葉

「大王が海賊に、『海を荒らすのはどういうつもりか』と問うたとき、海賊はすこしも臆すことなく、『陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小さい舟でするので海賊とよばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです』と答えた」(アウグスティヌス『神の国』)

 

「(秀吉に対し)大泥棒はおぬしだ、おぬしこそ天下を盗んだ大泥棒ではないか!」(石川五右衛門)

 

「人を一人殺せば人殺しであるが、数千人殺せば英雄である」(ポーテューズ)

随想

もし人から「死」を奪い取ったらどうなるだろう?

人は「死」があるからこそ生きていられるのではないだろうか?

僕はそう思う。

現代で「死」はある種タブーとなっている。

しかし、だからこそ「死」と向き合い、意識することが大切だ。

 

年々寿命が延びている。この状況に少し気味悪さを覚える。

寿命が延びるということは、「死」というものをますます意識しなくなるということだ。

「死」がないという無限地獄こそ、最も恐ろしい状態である。

 

僕は「立派な人は必ず自分の死生観を持っている」と考えている。

歴史に名を残した偉人や立派な人はちゃんと「死」と向き合っていると思う。必ず人生のどこかで「死」を意識し、考え悩み抜き、1つの自分なりの結論を出していると思うのだ。

「死」を畏敬の存在と捉えている人もいれば、そんなもの捨てちまえという人もいる。

皆必ず何かしらの死生観を持っているのである。信長しかり、スティーブ・ジョブスしかり、徳川家宣しかり。

逆にそんなこと考えたこともないって人は、まだ人生というものをはっきり根本から分かってないと感じる。

 

現代はますます「死」を感じられなくなってきている。

かく言う僕自身も親近者の「死」に立ち会ったことがない。

しかしこんな現代だからこそ、一度「死」というものに向き合うべきだと思う。

きっと世の中の見え方が変わるから。

「いつ最期の日が来ても後悔しない」。そう納得できる心構えを持っていたい。

音楽的文章

随想

当たり前だが、文章に音楽はない。

しかし、その文章が読まれるとリズムが生まれる。

 

平家物語は琵琶法師の弾き語りによって伝えられてきた。

コーランは読誦することを前提に作られている。

方丈記は文章が音楽的である。

 

文章というのは一見すると無機質である。

しかし実際は声に出し読まれることを意識した、とても生命的なものなのだ。

破戒 一休

随想

一休さんで知られる一休宗純は破戒僧であった。

しかし、それは決してだらしなかったというだけではない。彼なりの現実への投げかけと反駁だった。

 

意外かもしれないが、彼は後小松天皇の御落胤である。

また修行中に一度、自殺未遂をおこしている。

カラスの声を聞いて悟り、修行を終えた後は妻帯し酒を飲み、肉を食らった。

 また、彼は数々の奇行で知られている。

ドクロを杖の先に刺し町中を歩き回ったり、朱色に染めた鞘を腰に差し、町人の前で抜き放つや驚く町人を尻目に木刀であると笑い、「見かけに騙されるな」と教訓めいた。

 

しかし単なる狂人ではない。その行動には必ず意味があった。

彼が生きた時代は足利幕府が徐々に没落していき、応仁の乱が勃発し、いよいよ戦乱の世となっていった時代である。

彼の行動は、そのような現実に対する一種の投げかけであったのだと思う。

またそれは、彼が本来は国を治めるべき、天皇の御落胤であったという複雑な出生も関わっていると思う。

 

勝手な想像だが、彼は実直な人間であったのだと思う。高貴な身分に居て出家し、自分の存在意義、無力さなどをひしひしと感じていたのではないだろうか?

彼が一度起こした自殺未遂。20歳前後の多感な時期だったとはいえ、それはそうした考えの1つの結果ではなかったのではないかと思う。

また彼は修行が終了したことを認める印可状を受け取らず、そのまま自適な生活へと入っていく。きっと今さらそんなものを貰っても何の意味も無いと思ったのだろう。

世の中で本当に重要なことは何か、人から自らの行動を評価してもらうことか?自らの出生に悩むことか?いや、そんなことじゃない。多分そう考えた。

その意味で、彼が行った数々の奇行は彼なりの教えだったのではないかと思う。

 

一休の晩年の肖像画がある。

悩ましげに眉毛を垂らした、ヒゲヅラの汚いおっさんである。

しかし僕はこの絵を見るたび、心にグッと何か迫るものを感じる。

ただのおっさんではなく、様々なことを考え、様々なことに悩みながら生きた「人間」を感じるのである。

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「ツァラトゥストラ」の矛盾

随想

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

この本、内容は反聖書的である。

しかし僕はとても聖書的であると思う。

その論述の仕方が小説型で聖書的なのだ。

 

そして論語もコーランも同じような形式を採っている。

単なる論説調ではなく、息づかいが感じられるように作られているのである。

 これら人類の原初的書物が全て同じように物語形式を採っているのは面白い。

おそらく人に何か教えようと思ったら、内容と面白さの両方を兼ね備えた物語という形式が最も都合がいいのだろう。

確かに教科書のような事実の羅列ほどつまらないものはない。

逆に面白い小説はどんどん読める。

 

非合理的なものほど合理的に成らざるを得ないのかもしれない。

 

ドラえもんで漢文勉強をする

ためになる

http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51476365.html

 

ドラえもんを漢文訓読している。

なかなか面白い。

たまに読めない漢字が出てくるかもしれないが、そこは無視して構わない。

勉強の基本は「分からないとこは飛ばす」だ。

分からないとこでつまずくより、不完全でも全体をさらったほうが格段に良いから。

武士道と宮本武蔵

随想

武士道と宮本武蔵は相容れない。

武蔵の戦い方は「孫子」でいう「兵は詭道なり」を地で行く方法であった。

吉岡一門との決闘もセコいし、巌流島の決闘も武士道からしたら武士の風上にも置けないやつのやり方だ。

ひたすら勝ちにこだわり死んだら何の意味も無いと考えていた武蔵からすれば、「武士道とは死ぬこととみつけたり」というのは一笑に付すべき考え方であった。

 

では武士道とは何か?

それは江戸時代、武士が単なる階級でしかなくなっていた時にかつての武士への羨望を抑えきれない侍たちが考え出した精神論なのだ。

平和な時代に生まれ、実践経験もなく、剣術は型に成り下がった、かつてを憧れる侍たちが苦し紛れに考えた侍のあり方、それが武士道なのだ。

江戸中期に書かれた「葉隠」などはその最もたるものである。

 

理論と実践は相容れない場合が多い。

理論家はそこを承知すべきだし、実務家もそこを注意しなくてはならない。

 

 

日英都市計画

その他

東京とロンドンの都市構造は対照的だ。

東京は都市計画も何も無かったからめちゃごちゃごちゃしてる。

ロンドンはちゃんとした都市計画に基づいているから、住宅地と都市部などの区分けがはっきりしている。

 

世界的に見ても東京のような都市計画皆無の都市は稀だという。

ある問答

その他

警察「君、何をしてるんだ?」

若者「路上ライブです」

警察「許可は取ってる?」

若者「いいえ」

警察「じゃあ駄目だ」

若者「おいおい、公共財を自由に使えないほど日本は住みづらくなったのか?」

警察「それでも許可を取らなければいけないことになっているんだよ」

若者「これじゃまるで社会主義じゃないか」

警察「でも周りの迷惑になるだろう?」

若者「それは市場の原理に任せればいい」