ウルトラスタンプラリー

今東京を中心とした駅でウルトラスタンプラリーというものが開催されている。各駅一つひとつにひとつの怪獣などが割り当てられ、駅構内にスタンプがあり、それを集めると賞品が貰えるというものだ。
 
このスタンプラリーが始まってから、週末に子供がお父さんを連れ出してスタンプを集めている光景をよく見るようになった。個人的にすごく懐かしい。僕が小学生のときはポケモンスタンプラリーが開催されていて、同じようにお父さんを連れ出して全駅制覇し、メダルを貰った思い出がある。私の父は無口で亭主関白だったので普段はほとんど口を聞くことは無かったのだが、この時ばかりは僕が主役。堂々と父にわがままをいい、普段話さないことをいろいろと話した。
 
このスタンプラリーはもちろんスタンプを集めることが目的だ。しかし本当に重要なのはその集める過程なんだと思う。父と子がスタンプを集めるという同じ目的のために一緒に行動する。昼お腹が空いたら一緒においしいものを食べる。疲れたら一緒にお母さんが待っている家に帰る。そうしたことのほうが大事な思い出となるのだと思う。
 
こういう機会を与えてくれるJRは素晴らしいと思う。そしてそうしたイベントを今でも続けてくれているのはとてもうれしい。また今回の題材であるウルトラマンはおそらくお父さん世代が見てきたものだろう。お父さんにとっても懐かしくいい思い出になるのではないだろうか。
それに僕自身スタンプは集めていないが、週末にそういう光景を見るとなんだか嬉しくなってしまう。側から見ていてもなんだか良いものだ。
こういうイベントは本当にずっと続いていてほしいなと思う。

社会の縮図と役割を持つということ

そういえばこのまえ牧羊犬の羊追いのショーを見てきた。

牧羊犬がずーっと向こうの山のほうまで走って行って羊を100頭くらい連れてくるのはなかなか迫力があって面白かったのだが、それを見てて思ったことをいくつか。

 

まずそのショーを見ててふと社会の縮図を見ているような気になった。

世の中にも100頭の羊のように指示待ちの人間がいる。どの社会にもいるはずだ。

そしてそれらに指示を出す犬のような役割の人間がいる。

最後にその犬を動かしている人間がいる。

なんとなく社会のようだなと思った。もちろんトップの人間が怠けて犬に指示を出させないと犬が実権を握ったり、頭のいい数頭の羊がトップと変わったりする。

何というわけでないが、なんとなく社会の縮図のように感じた。

 

もうひとつは牧羊犬について。

僕の実家も犬を飼っているが、やはりただの家庭犬となにか役割を持った犬は同じ犬でも全然違うなと感じた。

例えば普通の家庭犬は可愛がれば、じゃれてきたり舐めてくるだろう。でも牧羊犬は可愛がってもちょっとこっちを見てくれるものの基本的に羊をずっと見ていた。

おそらくきっと自分は羊を管理する役目があるのだと深く認識しているため、こっちが可愛がってもあまり乗ってこないのだろう。

なにか役割を与えられているのと与えられていないのでは全然ちがうのだなと感じた。

これは日常でも言えることなのではないだろうか。

引きこもりとかニートとか定年とか、いろいろあるが、選択肢がありすぎると人は逆に決められない。役割を与えてみると良いのじゃないだろうか。

聖書・コーラン・古事記

キリスト教が「聖書」を読むように、イスラム教が「コーラン」を暗誦するように、日本人は「古事記」をよく読むべきだと思う。
 
古事記」を読めば、日本が分かってくるし、誇りを持つようになる。
古事記」は単なる事実の羅列ではなく、全て物語になっているから単純に面白いし、飽きない。
日本人なら一度は通読したことがある。それくらいになってほしい。
 
海外に赴任した外交官がまずやることは日本についての勉強だという。現地で日本についてつっこまれて、もっと日本について知らなくてはと思うのだという。
 
学校でも日本史や国語で一通りやるべきだ。
 
我々は我々の生まれ育った国についてもっと知らなくてはならない。

 

「かまいたちの夜」的発想

最近「かまいたちの夜」というゲームをしている


このゲームは名作で、僕はもちろん123とやった


書きたいことは山程あるが、今回は僕がプレイしつつ思ったことを書く


このゲームの特徴は普通のミステリー小説をゲームに持ってきたというところだ

おおもとはミステリー小説であるのだが、そこにゲームならではの映像と音楽、さらにプレイヤーの選択によって物語が変わってゆくという要素などを盛り込んだ


ここがこのゲームの革新的な点であると思う


小説という分野とゲームという分野を融合させたのである


僕はここに新しい発想全般に通ずる考え方があると思う

つまり新しい発想とは既存の媒体の融合なのだ

新しい発想は必ず既存の媒体の組み合わせによって生まれている


そう考えると、新しい発想をするというのは意外と難しいことではないのかもしれない


ヒントはあらゆる日常に転がっている


大事なのは我々がそれに気づくことが出来るか否かということだ




セルフイメージ

成功するにはイメージすることが大切だ。

 

意欲が湧いてくるし、詳細にイメージすることで同時に予行演習にもなる、そこで不明な点を見つけたら余裕を持って修正できる。


ナポレオンも「事前によく考えているから成功する。普段から考えなくともパッと天から解決策が降ってくるわけではない」と言っている。

 

また、よくイメージ出来ていることは、他人によく伝えることが出来る。


詳細にイメージすることで、それには今なにが足りないのか、ではどうすれば良いのかもわかる。


成功した状況を出来るだけリアルにイメージする

それが出来たらもう目的の半分は達成したようなものなのだ

 

 

未来予想

グローバル化はますます進む。東京から横浜に行ける感覚で東京からニューヨークまで行けて、世界経済は一体化する。移民とかいう言葉は死語なるくらい世界は一体化するが、アイデンティティはなくならない。

正義と悪

「大王が海賊に、『海を荒らすのはどういうつもりか』と問うたとき、海賊はすこしも臆すことなく、『陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小さい舟でするので海賊とよばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです』と答えた」(アウグスティヌス『神の国』)

 

「(秀吉に対し)大泥棒はおぬしだ、おぬしこそ天下を盗んだ大泥棒ではないか!」(石川五右衛門)

 

「人を一人殺せば人殺しであるが、数千人殺せば英雄である」(ポーテューズ)

もし人から「死」を奪い取ったらどうなるだろう?

人は「死」があるからこそ生きていられるのではないだろうか?

僕はそう思う。

現代で「死」はある種タブーとなっている。

しかし、だからこそ「死」と向き合い、意識することが大切だ。

 

年々寿命が延びている。この状況に少し気味悪さを覚える。

寿命が延びるということは、「死」というものをますます意識しなくなるということだ。

「死」がないという無限地獄こそ、最も恐ろしい状態である。

 

僕は「立派な人は必ず自分の死生観を持っている」と考えている。

歴史に名を残した偉人や立派な人はちゃんと「死」と向き合っていると思う。必ず人生のどこかで「死」を意識し、考え悩み抜き、1つの自分なりの結論を出していると思うのだ。

「死」を畏敬の存在と捉えている人もいれば、そんなもの捨てちまえという人もいる。

皆必ず何かしらの死生観を持っているのである。信長しかり、スティーブ・ジョブスしかり、徳川家宣しかり。

逆にそんなこと考えたこともないって人は、まだ人生というものをはっきり根本から分かってないと感じる。

 

現代はますます「死」を感じられなくなってきている。

かく言う僕自身も親近者の「死」に立ち会ったことがない。

しかしこんな現代だからこそ、一度「死」というものに向き合うべきだと思う。

きっと世の中の見え方が変わるから。

「いつ最期の日が来ても後悔しない」。そう納得できる心構えを持っていたい。

音楽的文章

当たり前だが、文章に音楽はない。

しかし、その文章が読まれるとリズムが生まれる。

 

平家物語は琵琶法師の弾き語りによって伝えられてきた。

コーランは読誦することを前提に作られている。

方丈記は文章が音楽的である。

 

文章というのは一見すると無機質である。

しかし実際は声に出し読まれることを意識した、とても生命的なものなのだ。