日本人のデモ

先日はじめてデモというものに参加してきた。
 
日本でデモというのは非日常だ。
日本人は政治的主張をしたがらない。無理に主張して軋轢が生まれるのを避けようとする。
経済大国としてはしたたかな方法かもしれない。
だが、いつまでもナアナアにし続ける訳にもいかないだろう。
嫌が応にも国際的変化の波に日本は態度を明確にしなくてはいけなくなってきている。
ただでさえ態度を明確にしろと言われてきた歴史がある。
その波は市民の間にも広まってきて、最近ではデモがより有効な政治的主張の手段となってきているように思う。
デモの主な目的は人目の目立つ場所で大規模なデモをやり、このような主張をしている人が多くいると周知させる、いわば一種の広報活動だ。
今や多く人はスマホを持ってSNSをやっているため、個人に向けてのデモも全くもって有効だ。
実際、デモをやっていて、スマホで撮影している一般の人は思った以上に多かった。それも若い人がほとんどだ。
情報発信の主体は今や若者なのだなと感じた。
一人一人の不特定多数が記者みたいなものだ。
お金なんか発生せずとも情報を発信してくれる。
もちろん、メディアに取り上げられるというのも、一つの目的ではあっただろうが、SNS等での発信力はそんなの気にならないくらい強くなってきている。
これからSNS世代が増えてくるに従ってますますその傾向は強まるだろう。
 
もう一つデモの際、印象的だったのは右翼の街宣車の前を通った時だ。
右翼の前を通った時、拍手を送られた。
そしてあちらが手を振り、こちらも手を振り返す。
そこに不思議な一体感が生まれていた。
同じ主張をしているというわけではなく、敵の敵は味方みたいな状況だったが、なんだかえらく感動してしまった。
 
しかし、同時にデモの限界についても感じた。
海外においてデモはスタンダードな政治的意見表明の手段だ。
海外のそれは日本とは比べ物にならないくらい過激で、車の一台や二台は平気で燃やしてしまうものらしい。
日本においてそういったデモは必要はないが、警察に囲まれて、決まったコースを練り歩くだけという非日常でありながらどこか日常的な予定調和を感じた。
参加者もデモに慣れているように感じ取れ、構えていたよりも緊張感はあまり感じられなかった。
フワッと始まり、フワッと終わる。
どこか肩透かしを食らったような感覚は否めない。
 
それでも意見表明をするというのは大切だ。
今まで日本は政治的な意見表明を避けすぎていた。
その形態がデモであろうと別の形であろうと、この日本で積極的に意見表明するというのはこれからの日本にとても重要なことだと思う。