最近数学を勉強している。
するとつくづく思うことがあるのだが、数学って言語なんだなってこと。
世の中の現象を数式に変えて、そして文法とも言えるルールに基づいて運用する。
その世界の言語である数式やルールに慣れない人にはまるで異世界の言語のように見える。
でもそれは慣れさえすればまるでパズルのように面白くて、気持ちよくて虜になってしまいそうになる。
生活で役立つかなんてどうでもいい。
一生知らないで死ぬより、知って死ぬ方がとりあえず人生は豊かになる。
そんなもんである。
最近数学を勉強している。
するとつくづく思うことがあるのだが、数学って言語なんだなってこと。
世の中の現象を数式に変えて、そして文法とも言えるルールに基づいて運用する。
その世界の言語である数式やルールに慣れない人にはまるで異世界の言語のように見える。
でもそれは慣れさえすればまるでパズルのように面白くて、気持ちよくて虜になってしまいそうになる。
生活で役立つかなんてどうでもいい。
一生知らないで死ぬより、知って死ぬ方がとりあえず人生は豊かになる。
そんなもんである。
朝、だいたい午前5時〜7時頃に起床。
うがいをし、トイレに行き、髭を剃り、髪を結う。
その後、健康診断を受け、午前8時頃に朝食をとります。
食後、大奥の「御仏間」に行き、歴代将軍の位牌を拝む。
奥に戻り、午前中は儒学を学んだり、剣術の稽古、ときには老中と面会をしたりします。
昼食をとり、老中や若年寄の持ってきた政治に関する問題について、最終的な決定を下します。
公務がなければ自由時間。
乗馬や能、庭園の散歩、読書などを楽しみました。
その後午後2時ごろにもいったん大奥へ行き、暗くなった午後5時〜6時頃に夕食をとり、囲碁や将棋など私的時間を挟みつつ、午後8時ごろにはまた大奥へ行き、泊まらない場合は奥へ戻り、午後11時ごろに就寝。
政務を中心としつつ、将軍としての教養なども日々養っていかなくてはならない、将軍の1日でした。
近頃は死を日常に感じることが少ない。
昔は家で生まれ、家で死んでいった。
葬式も近所の人が総出で執り行い、遺体も棺に入れ、土に埋めた。
かくいう僕自身も死を短かに感じたことが無い。
葬式は行ったことが無いし、親族も僕が生まれる頃にはほとんど亡くなっていた。
それでも死とは何かを考えていた時期があった。
僕は織田信長が好きだ。
彼の死生観はいつも舞っていた幸若舞「敦盛」にそのまま表れている。
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
解釈すると「人は必ずいつか死ぬのだから生きている間は全力を尽くせ」ってことだ。
信長はこの舞を常日頃から歌うことで死に対する心構え、ひいては生きるということに対する心構えを忘れないようにしていた。
大事なことは反復するということを実践していた。
その他にも確固たる死生観を持ってる人物は多くいる。
それがどんなものだって構わない。
どんなに女々しいものであっても、厳しいものであっても、もはや生に対する諦念であっても。
いづれにしろ確固たる死生観を持つことこそが、何かを成し遂げるには必ず必要になってくるものだと思う。
ただなんとなく周りの流れに乗って生きて行くだけなら考えなくたっていい。
でも人生をより、意味のあるものにしたいのなら1つの死生観は持っておくべきであると思う。
休みだから発散しよう、飲み会だから普段のストレスを解消しようなんて正常じゃない。
休みも仕事も楽しいものでなくちゃ。
いわゆる世間一般はそうなんだろう。
世間一般は日々の鬱憤やストレスがどうしても溜まる。それは避け得ないことだ。
そのために華金や忘年会、新年会、何かとこじつけで発散させようとする。
でも、それでいいとは思わない。
周りがみんなそうしてるから麻痺してるだけだ。正常じゃない。
仕事ってそんな負の存在なのだろうか?
我慢して我慢して我慢してそれで貰えたお金でなんとかして生活してみたいな苦しいものなのだろうか?
嫌なものや苦痛を伴うことは避けようとするのが生き物の基本原理だ。
でもそんな基本原理さえ無視してしまう現象が起きている理由は多分いくつかに集約される。
それは家族のためとか、将来のためとか、自身のプライド、はたまた社会に出るってそういうものだという諦め。
でもそれは間違っていると思う。
「家族のため」って言葉は所詮自己暗示だ。
それがある、その誇りがあるという理由が苦しい日々の現実から目をそらさせてくれる。
そしてそれは多少成果がみえて(子供の成長等)多少はより自分を酔わせて、間違っていないと思わせてくれるものだ。
プライドなんかなくていい。
ここで仕事を辞めたら世間からどう見られるだろうか、親を悲しませるんじゃないか。
そんなのロクなプライドじゃない。
社会ってそういうものだって諦め。
これは1番最悪。
諦めんなよって感じ。
日本人はもっと自分に正直でいいと思う。
仕事終わりの飲み会(それも翌日の事を気にしての飲み会)や数少ない休みでしか鬱憤を解消できないような日常なら仕事を変えればいい。もっと毎日が楽しくなる仕事に。
簡単に言うなよなんて言う人がいたらそれは諦め。
簡単ではないかも、でも無理な話じゃない。
何事に対してもそうだが、一旦そういうものだって考えをやめて、正常な状態ってなんだっけって考えることは凄く価値があると思う。
少なくとも明日のことを不安に思いながら飲むよりは。
最近「般若心経」を書写している。
昔の武士は皆、書写していたと言うし、教養の一つであったと思う。
ちなみに般若心経の練習帳は100均で売っていて、一緒に筆ペンを買ってしまえば一式揃う。
何よりも僕は字が汚い。汚い字にそれほど負い目は感じていないが、きれいに越したことはないし、自分の字を見るのにもいい加減飽きてきた。これを機にきれいになればと思っている。
そういえば小学生の時、字がきれいな友達は決まって習字を習っていた。
今どき、ボールペン字講座やら美しい字を書く講座やら流行っているが、そんなものに通う必要はない。100均の書写練習帳と筆ペンを買って、あとは自分でやりさえすれば字はきれいになる。
ついでに教養も手に入ってしまう。
他にも世間では数独が流行っているが数学の計算問題をやればいいし、クロスワードは詰め将棋をやればいい。その方が実用的だし、一石二鳥だと思う
古典的なものは今でも役にたつ。
昔から人々がやってきたことというのはやはり理にかなっているし、間違いないなと思う。
かわいいとか綺麗とかかっこいいとか男前とか。世の中の人は外見によって人をある程度判断する。
そしてその評価はひとの人生を左右するほどに重要とされている。
事実、見た目が整っている方が出世しているというデータもある。
女性は恋愛しかり、結婚しかりそれを武器に生き残っていかなくてはいけないわけだからそう言われることは、何にも勝る価値があるのであろう。
一方、男にもそういった傾向はあるだろうが、女よりは重要度は低いだろう。
もちろん、見た目が良いことに越したことはない。人生をうまく渡っていくための一つの武器ではある。
しかし所詮そんなもの若いときの一時的な、刹那的なものに過ぎない。
老いれば消えゆくものに力を注ぐことはあまり賢明ではない。
顔の良し悪しよりはるかに重要なことは、何を成したか、何を残したかだ。
いくら顔がよくても何も成せていないならそれは無価値であることと同義。
なにも出来ていないのだ。
何を成すかをまず最優先に置かなくてはならず、それを差し置いてまず見た目がいいことが第一になってしまってはならない。
見た目は目的達成のための武器のひとつでしかなく。それは最悪なくても一向に構わない。
その本末転倒というか、優先順位が逆になってはいけないのだ。